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日本版クラッシュ・バンディクー20周年記念メッセージ


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このページでは2016年12月20日に放送されたSIE公式番組「ノーティードッグ×PlayStation® 20周年記念放送 アンチャーテッドCLUB特別編」内で紹介された当時の「クラッシュ・バンディクー」開発者のメッセージを紹介します。これは番組内で「クラッシュ・バンディクーカーニバル」の長谷川プロデューサーが翻訳したものを、番組から私が書き起こしたものです。

掲載については権利者様からご連絡いただいた場合は迅速に対応いたします。

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STEPHEN WHITE
クラッシュ1〜3でリードプログラマーとして活躍。ノーティドッグ共同設立者の一人でスターウォーズが大好きな人物。

クラッシュを作っている時は、とにかくみんな本当によく働いていました。ジェイソンは「寝ないと生産性が落ちるから徹夜はするな」と言っていましたが、まあそうもいかなくてね。3の時は締め切りの関係で終了直前でどうしても間に合わないステージが2つあって、ジェイソンがゲームから削除すると決めたのですが、ボブラッフェイと僕と何人かのスタッフで深夜まで働いて完成させました。
ただそのまま入れるとジェイソンにバレてしまうので、隠しステージにしましたね(バイクステージのエイリアンの看板にぶつかるココの火山噴火ジェットスキーステージ。それからプテラノドンにさらわれるベイビーTの2Dステージ)
それから全然違う話なのですが、2を立ち上げてしばらくするとデモプレイが始まります。ゲームショップでお客さんの目を引くためにね。ただ、あまり上手すぎてもダメなので適度に失敗する必要があって。でもスタッフがやろうとするとやられ方がわざとらしすぎて、結局採用されたのは僕の奥さんがプレイしたデータなのですよね。
日本版の思い出としては、3と同時期に発売されたポケットステーション用に色々と独自の対応をしたことですね。ポケットステーション上のセーブデータによってゲーム本体の一部を変化させました。アイドリングアニメーションのヨーヨーの色を変えたのですが、8色くらい用意してテストをしていた時に周囲のメンバーが「なにそれ!クールだな!え、日本版だけなの。」と残念がっていたのを思い出します。





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GREG OMI
クラッシュ2でプログラムとモデリングを担当。

入社したのはクラッシュ2の開発が始まるタイミングで、面接を受けた時にナイツ、マリオ64、そしてクラッシュを見せてもらった。いろいろな会社が楽しく遊べる3Dのゲーム設計にチャレンジしていて、特にカメラの制御はみんな苦労していた。でもクラッシュはその問題をうまく解決できたと思っている。
また、レンダリングのエンジンをずっと改良していて、最終的には当初の2倍の速度、さらにソフトウェアゼットバッファ機能も加えられた。当時はメンバーが少なかったので皆が複数の役割をこなしていて、僕もチェックのために全言語のクラッシュを100パーセントクリアした。
ちなみに3のプーラは僕のアイデア。寅年に出るから。レンダリングエンジンは2、3、レーシングとやったけど、特にクリスタル、宝石の表現は他のどのゲームよりも綺麗だったという自信があるよ。3のエヌ・ジンの合体メカ、ココのジェットスキーの海面の表現も大変だったけど、あれもよくできていたと思う。
日本版で一番よく覚えているのはニセクラッシュかな。ユニバーサルが北米向けに作ったフィギュアの出来がひどくて「これは完全にニセモノだ」とみんなで騒いだところから、日本が独自にアイデアを膨らませたんだけど、オフィスのみんながとても気に入っていた。社長のジェイソンもダンスを勝手にノリノリで作っていて自分のオフィスでお尻を振っているのを外から見て、みんなで大笑いしていたよ。





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ANDY GAVIN
リードプログラマ、リードツールプログラマ、その他いろいろを担当。ノーティドッグ共同設立者の一人。

今のゲーマーにはちょっと理解できないかもしれないけど、80年代中頃から90年代後半は日本のゲームが世界中を席巻していて、当然ながら我々もそういったゲームの影響を大きく受けていたんだ。一方で当時の日本市場は保守的なところがあって、欧米のゲームがなかなか売れなかったんだよね。だから我々がゲームを作る時に、日本市場でヒットさせるというのはとても大きな目標だったんだ。
2の開発がスタートしてユニバーサルのマークサーニー、そしてSCEの吉田修平とチームを組んだ時もそれを全員で共有したし、数ヶ月に一回はSCEA、SCEE、SCEJのプロデューサーとマーケティング担当が全員一つの部屋に集まってローカライズに関する様々なことを議論した。この時に多分世界の誰よりもゲームを遊び、世界の誰よりも漫画を読んでいたであろう鶴見六百というディレクターが加わって、吉田さんと鶴見さんはクラッシュを「海外から日本に輸入されたゲーム」ではなく「日本で作られたゲーム」にするため、ゲームの細部をあれこれ詰めてくれた。マーケティングもいわゆる洋ゲーではなく、SCEJで作られた内製タイトルと同じ扱いで、それは当時の海外開発タイトルとしてはとても珍しかったと記憶している。
ただそのための要求もとても厳しくて、特に日本語フォントを組み込むのは本当にペイフル(大変すぎて辛くて辛くてしょうがない という意味)だった。ただでさえ多くなかったフォント用のメモリなのに、日本語はひらがなとカタカナが追加で100文字近くあって、さらに文字が複雑なのでアルファベットよりも解像度を細くする必要があって、濁点を再現するのに当然濁点入りの文字は持てないので、点だけ。しかもメモリを節約するためには点は一つ。それを2回打つくらいギリギリのことをしていたんだ。
スタート画面、オプション画面、ポーズ時のオプション、会話画面、システム画面、さらにやられ続けるとアクアクが出てきてヒントを話したり。作る方も大変だったけど、全てチェックする鶴見さんも大変だったと思うよ。一方で米欧日、様々なバージョンを作成するときにミスを起こさないようにテリトリーを指示すると自動的にその地域用のモジュールだけをピックアップしてディスクを焼くための自動化システムを作ったりしたんだ。Jと指示すれば日本の文字、声、曲、ステージセッティングなどを自動的にビルドする。ミスが劇的に減り、作業効率が格段にアップしたよ。日本から一部のボス面のステージの曲をゲームっぽい音に変えて欲しいというリクエストがきて、音楽担当のジョッシュマンセルが苦労していたのを思い出すな。ほとんど時間がない中で、確か5曲くらい変えたと思うよ。





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BOB RAFEI
リードテクニカルアーティスト。

クラッシュは1でリードアーティスト、それ以降はアンチャーテッドまでずっとアートディレクターを担当していました。
プレイステーション1というハードで3Dのゲームを作るのは、技術的、芸術的 両方の観点から相当なチャレンジでした。当時は苦労の連続でしたが、1の大成功でそれも報われました。作っている時は意識していなかったのですが、リリース後にSCEの各テリトリーから届けられた様々な言語に翻訳された1のパッケージやポスターを見て、自分の関わっているゲームが世界中で遊ばれているというのを実感したものです。
特に日本から送られてきたクラッシュとパラッパが並んで座っているポスターは、スタッフ全員が大好きでフレームに入れられてずっと飾られていました。あとはニセクラッシュ!あれは我々では絶対に思いつかないアイデアですが、見ているうちにみんな好きになりましたね。





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ROB TITUS
アーティストアニメーションとして活躍。

日本のSCEから送られてくる、日本のゲーム雑誌や漫画、CM、ポスターどれも好きだった。アイデアも面白くてニセクラッシュが特に好きだった。爆発する箱のテクスチャーをTNTからニトロに変えるのや、壁に彫り込まれたステージの名前を日本語にしたり。レーシングの時はオキサイドの口のアニメーションを日本語の声に合わせて調整したり。日本語はわからないのだけど、日本版の作業は楽しかったなー。あとリリースする順番が北米、欧州、日本だったので日本版が一番バグも少なくクリーンなんだ。だから自分でも日本版を買っていたよ。
日本のクラッシュがオフィスに来た時は本当に嬉しかったな。目の種類がたくさんあって色々な表情ができて、あれは本当にクールだった。自分の関わったゲームが世界中で遊ばれてそれがクールになってオフィスを訪ねてくれるんだ。最高だと思うよ。





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ERIC A. IWASAKI
リードアーティスト。

最初僕はクラッシュが大好きな1プレイヤーだったんだ。個人でゲームを評価するWEBサイトを運営していて、クラッシュには10点中9点をつけていた。それを読んだジェイソンに呼ばれてユニバーサルのオフィスに行ったんだけど、その場でクラッシュ1のどこが良くないか、こういう風にするべきだということを永遠と語った。あとで知ったんだけど、僕が文句を言ったステージのほとんどがジェイソンがデザインしたものだった。なのでノーティドッグに入らないかと言われた時は驚いたよ。
続編の制作が始まっていて、僕はステージやオブジェクトのライティング、エフェクト、ステージデザイン、一部のボスデザインを任されたんだ。宇宙ステージ、エヌ・ジンのメカ、エヌ・ジンステージのナビゲーションまわり、あとリパールーのアニメーションもやったな。映画の専門学校に行っていたんだけどその知識が役に立ったよ。人が少なかったので一部のサウンド作成とか、ジェイソンと一緒にノーティドッグのWEBサイトのリニューアルとかとにかく何でもやった。
3ではグレッグと一緒にジェットスキーステージの水面処理とか、ボスキャラのデザイン、あとはマーケティング、パッケージアート用の高解像度ビジュアルアセットを作るようになった。ナーブスという技術を使って。
日本版の思い出はとにかくCMのクラッシュダンスのインパクトかな。オフィスでみんなで何回もビデオを見直して大笑いしてた。特にジェイソンはあのダンスをゲームのモデルに踊らせるためにコマ送りで何百回も見ていたと思う。
日本語用の高解像度モデルは瞳の色や処理 全体的な色使いや、尖ったパーツの処理なんかを担当したよ。あとビデオの撮影で日本のクラッシュがノーティのオフィスに来た時はメンバー全員が本当に喜んでいたよ。アメリカのCM用にアメリカのクラッシュもいたけど、日本版の方が断然好きだね。





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JOE LABBE II
1から3のビジュアルデザイン、モデル背景を担当。日本のアニメが大好きで背中に罪という文字のタトゥーが入っている人物。

楽しい思い出はいろいろあるけど、あげるとすれば3の頃。チームの士気も高くて、何週間 何ヶ月もほとんど休みなし。アメリカ欧州日本のプロデューサーからの要求をすべて満たすのはチャレンジングだったけど 完成度にはみんな満足していた。
ちなみにクラッシュ3のボスでネタが足りなくなってきた時にずーっとオーストラリアをテーマに考えていて、ある時にディンゴとクロコダイルを合わせたディンゴダイルというボスを思いついたのは俺。チームのみんなにも評判が良くて採用になった時は嬉しかった。あと今だから言うけど ジャック×ダクスターに出てきたクリムゾンガードの声も俺。





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DAN AREY
2から3でリードゲームデザイナー、プランナーとして活躍。

ゲームデザインより先に思い出すのは日本のCMや漫画、ポスターなどに出てくるクラッシュの可愛さ。3以降のクラッシュのモデルはかなり日本に影響されたんだ。オフィスには日本が作ったクラッシュとパラッパのポスターが何枚も貼ってあって、テクスチャーやポリゴンモデルの参考にしたよ。
僕とマークサーニーはチューニングを担当していたので、SCEには世界中でプレイテストをしてもらって、それを録画したテープ、行動を記録したメモリーカードを送ってもらい、その内容を徹底的に分析したんだけど、マークはこの作業をバッハのフーガと呼んでいたんだ。バッハのフーガは芸術作品ながら実はその基本にはものすごく緻密な数学的設計があって、それになぞらえていたんだね。ジャンプ、障害物を避けること、敵の出現などをチャレンジと呼んでいて、1ステージに60から70。そして14前後でチェックポイントが出るような設計になっているんだ。このチャレンジの頻度がそのままゲームのリズムになっていて、プレイヤーが無意識のうちに「そろそろ何かくるな」。そして14のチャレンジの後には「そろそろチェックポイントがあるはずだ」となんとなく感じていたはずなんだ。同様にりんご100個でライフが増えるので、チェックポイントの間には平均で50個のりんごを配置した。なので2回やられると1人増えて、その間に次のチェックポイントに着けば良いので、大抵のプレイヤーは少しづつ先に進めたはず。ただそれでもうまくないプレイヤーはいるので、特定の場所でやられ続けると7個目のチャレンジ前後の木箱がチェックポイントに変わるというリアルタイムでの調整もあった。これは3のシステムなんだけど、これは1、2の世界中のプレイヤーのテストから導いたもので、基本はこのシステムで全世界に対応できている。ただどうしても地域によって偏りがあるので、そこはマークが最後まで細かく調整していたよ。緻密な計算が最終的に芸術的な作品を生み出したと思っているし、バッハのフーガという例えもとても気に入っている。





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GREGG TAVARES
レーシングのレベルデザイナー、プログラマー。

日本の各地で開かれるワールドホビーフェアというイベントがあって、それに向けてクラッシュのセーブデータのあるメモリーカードを持っていくといいことがあるよ というサービスをやりたいという打診が日本からあって、イベント用の特別バージョンを作ったよ。素敵なアイデアだったよね。社内で「アメリカでもやりたいね」と言っていたんだけど、運用が大変で実現しなかったのは残念だったな。





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EVAN WELLS
ノーティドッグ共同社長。

僕がクラッシュ3のゲームデザイナーとしてノーティドッグに入ったのは1998年。すでにクラッシュはフランチャイズとして十分に成功していたし、そこに加われたのは本当に嬉しかった。でもその成功の規模とは裏腹にチームはまだ小さくて、僕が14人目の社員だった。みんなも同じ部屋にいたので、コミュニケーションは基本的に「相手に向かって怒鳴る」だったし。
日本のクラッシュの思い出といえば、クラッシュがオフィスに来た時のことだったね。ボーナスムービーの撮影だったかな。無粋なことを言えば着ぐるみなんだけど、あまりにも自然で本当にそこにクラッシュがいるみたいだった。あれはメンバー全員が本当に楽しんで、だからこそ日本独自の要素を入れたいというリクエストがSCEJから来ても、みんな喜んで対応していたんだと思う。難易度調整、テクスチャーや文字、音声の変更、アニメーションやテクスチャーも変えたし、日本独自のキャラクターも入れたしね。ポケットステーションなんてハードもあったね。
もう20年になるんだね。クラッシュ20周年おめでとう!






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